211 不本意なれど

クズ防除夏、冷えた葛餅を食べると昔の思い出が蘇る。生姜の香りの葛湯は私の大好物。太い根からでんぷん粒子を洗い出し厳しい手わざの挙句作りだすのが葛粉。されどここはジオパーク。火山灰の堆積を保存する露頭にクズは大敵。北国へやっと繁殖の糸口をつかんだクズにとっては不条理な話だ。昨年イソプロピルアンモニウムなる物質を主成分としたピンを打って駆除することにした。発芽を抑えらたであろうか。甘い赤紫のクズの花の匂いをおもいだす。

 

210 胡瓜魚

キュウリウオ字面からはどんな魚が想像できるだろうか。私の好きなキュウリウオ。理由は新鮮なきゅうりの匂いがするから。生臭く青臭いこの匂いが大好き。しかし野菜のキュウリは大っ嫌い。900円で3パック15匹を買ってきた。長さ30㎝の優れもの。部屋中にきゅうりの匂いを充満させながら一夜干しを作る。これがまた旨いのなんのって。淡白で味わいがあり、白身の香ばしさは、あヽ、、クラクラする。アイヌ語で「フラルイチェプ」は匂いの強い魚の意。ここの海の至宝。

209 此処ならば

アルトリの磯向こうに残雪の有珠山が望まれる。ここアルトリ岬は7000年ほど前、有珠山の山体崩壊で流れ下って海へ突き出した流れ山だ。有珠山を構成していた岩石はここよりはるか沖合まで流れ落ち、海底の岩礁を作り潮間帯では磯となった。岩礁は海藻を育て多様な生きものたちを育んできた。近くに伏流水の泉もある。マガキとフノリのおいしい感触が手に伝わる。ここでならば縄文の昔、私もなんとか暮らせる、と思った。どのような生活だったのだろう。

208 タマキビの春

タマキビ水温はまだ低いが、光は水のうちそとに溢れ、動き回る生き物たちの餌となる海藻の繁茂も充分で、引潮の砂浜ではタマキビが活動しはじめた。何を思い起こしたのか、一つ伸びをして、どちらかへお出かけだ。アルトリの岬にはこの外にクロタマキビが分布している。小さくて日常的には食用にはならないが不味くはない。個体数はとても多い。いざという時には救慌食として人の命をつないで来たのであろう。

207 ここにも一つ火口が

カルルスの火口雨の日はいつも地形図で遊んでいた。ひねもす面白い地形を探す。1/50.000が1枚あれば半日は持つ。ボトルと乾き物があればさらに言うこと無かった。地図を眺めて気になっていた場所があった。カルルス温泉から登別へ登別川を1㎞下った場所、川幅が突然数百m円形に広がっている。爆裂火口に違いないと思っていた。夏には緑に覆われて判別できなかった。別な必要があって、この地域の地質図「徳舜別図幅・説明書」を入手した。驚きました、まさしく火口となっておりました。右奥が来場岳(ライバ岳 1040.1m)。画面中央の平坦部手前の斜面が火口壁の名残り。ここより3㎞北東には水を湛えた小さな火口、橘湖がある。

206 美味しい黴

シイタケ食べるという行為、口で咀嚼し消化管で吸収、そして体外へ排泄。だが、口から肛門までは身体の外。身体の内側にある外界。動物なる我々はこの内なる体外を通して、必要とするあらゆる物を消化し取り込む。植物を食べる。植物を食べた動物を食べる。植物を食べた動物を食べた動物を食べる。それらの中で、植物でも動物でもない最も異端な食物がこれ、菌類。美しく若いシイタケ。美味しいけれど変な食べ物です。

205 世界一呑気な鱈

「鱈」世界を変えた魚の歴史一本100円で乾して冷凍したスケトウタラが売っていた。家族分の夕餉の一品となった。マダラの乾燥品も一般的だ。手をかけて作る芋棒も旨い。上出来な卵巣の塩漬けも自作する。そしてある日、マーク・カーランスキーの「鱈」を読んだ。世界のいくつもの国々が鱈で救われ、鱈で成り立った事実がそこにあった。カナダ、イギリス、オランダ、ポルトガルもタラで戦い、タラで救われた。カリブ海諸国の奴隷制の陰には暗澹たる食としての塩鱈が関わっている。アイスランドでは農作物は作れず、タラで建国するために領海を命がけで3海里を獲得し、4海里、12海里、50海里、200海里へ拡大しながらと国の存亡をかけ、英、独との激しいタラ戦争を経て列強と対峙した。読み終わっていろいろ考えた。タラは世界中で激減している。日本はその現状に実に呑気だ。

204 純正キノコ鍋

純正キノコ鍋白老町で天然物のキノコ15種類の鍋を食べさせる店があるとのことで、キノコの会のメンバー打ち揃って出かけた。いまはシーズンオフで、いずれも昨年店主が自ら採取して保存した物が提供される。しかし味は勿論、香り、食感、色どれをとっても新鮮さを失っていない。化学調味料大サービスのキノコ汁キノコ鍋、あまた喧伝されるその中でこれぞ正真正銘、天然キノコ鍋。特にムラサキシメジの昨日採ったようにも見えるやつ。これはひときわ旨かったね。

203 1878年8月某日

砂嘴から白老を望む白老港は20年程前に使用が始まった。町から3km離れた新しい港だ。この港の少し東側の道を海の方へ入り込むと、そこから東へ、どこまでも続くような砂浜にたどり着く。この浜は秋、鮭釣りで有名だ。成熟した鮭が昔覚えた母なる川の匂いを辿ってやって来る。灰色の海の波間にその姿が透けて見えるようになる頃、猛る雄サケ同様、野武士のごとく蝟集する常連釣師達の血もまた騒ぎ立つ。数百本の竿の幟が立ちあげられると男たちの眼も血走る。まるで鮭の眼だ。男だけではない、女の釣師も混じっている。流木を積み上げ、砂地を掘って小屋掛けする剛の者も現れる。そうなるともう素人衆の立ち入る隙はほとんどなくなる。さすが北海道、鮭となると別格なのだ。人にも鮭にも同じ海の水が流れている。更に1.6km東へ、つまり白老市街地側へ進んでみる(地図参照)。この時期(三月)にはさすがに誰も見えず、飢えたキツネの足跡が続いているだけだった。引き潮のせいもあって、広くなった砂浜には人影もなく、流木以外のごみとしての漂流物も見当たらず、無機素材のみの、ごく当たり前の砂浜の風景と出会うことができた。

砂嘴の地形図と航空写真この砂浜はウヨロ川、ブウベツ川、白老川の三川の河口を閉塞するように西と東から成長した砂嘴である。陸水の流れ、海水との比重の差、沖からの波浪、潮流、風など様々な流体力学の重合的集大成がこの地形だ。1/25.000地形図を見て、自然とは斯く有りなんと納得した。1976年撮影の航空写真と突き合わせて見た。地形には大きな変化は見つからない。もう少し地形の変化が有りそうだと思った割にはそうでもない。砂浜の流失がニュースになっている昨今、姿を変えずに現状を維持し続けている砂浜が身近にあるのだ。ここからはドームを載せた樽前山の見事な山容が手に取るように見える。白老川の上流域は北海道でも有数の多雨地帯だ。その奔流はたち並ぶ火山による噴出堆積物を浸食し運搬し、海に砂利や砂を供給するのであろう。かくしてこの海では潤沢となった漂砂は水に乗り移動し、卓越してこの地形となる。白老の市街はさらに先だ。

イザベラ・バード1878年、今から135年前の8月のある日、幌別を発ったイザベラ・バードはこの浜に沿って白老に向かっている。現在の国道36号線の前身となった街道は、人、馬車の往来が多かったようで、14年後の1892年には北海道炭鉱鉄道が開業(1906年国有化され、室蘭本線となる)している。「どんよりと曇った日で、険悪で暗い水平線が見えた。雑草の茂る平地の上を灰色の道路が走り、それに沿って灰色の電柱が並んでいた。道路は灰色の糸のようにいやになるほど遠くまで伸びていた。微風が海から吹いて来て、足草の間をさらさらと音を立てて通り、背の高い羽毛のような薄を波打たせた。太平洋の荒波の轟く波音は、その壮大な深い低音で空気を震わせていた。この孤独な大自然は、隅々まで詩と音楽に浸っている。私の心は安らぎを覚えた」。その4年前樽前山が1874年に噴火しており、まだ噴火の余韻と残滓がそこここに残っていて、灰色を纏ったイメージの世界があったのだろう。その日の夕方、疲れ果てて白老の宿に着いたイザベラは、「新しい鮭の厚い切り身を炭火で焼いたのを、魚油皿に灯心を立てた灯火の下で美味しく食べた。その日一番楽しかったことだ」と日記に記す。(高梨健吉訳) この鮭は時期からいってまさしくトキシラズ。脂が乗っていて身が厚く、切り身にすると背鰭から腹まで25cmを超える長さとなる。どこまでも軽やかで舌にもたれず、心を舞い上がらせるような豊潤で純度の高い脂身と、Salmonidae属が誇る濃厚な味、滋味深い風味は、最高級の霜降り牛肉をも凌駕する。150年程時計を巻き戻して、私も同行し一緒にありつきたかった。この鮭は間違いなく美味しかったはずだ。残念至極。

イザベラ・バードについてはイザベラ・バード 「日本奥地紀行」高梨健吉訳(2000年)平凡社によった。また、1878年9月6日からの礼文華山道紀行については安藤忍氏のブログもどうぞ。

http://toya-usu-volcanomeister.net/vm_ando/archives/1549

 

 

202 春隣

有珠山・昭和新山陽の光に力が強くなり根雪も固く締まって、いよいよ春を近く感じる。大有珠の雪は厳しい冬そのものだが、昭和新山のドームは地熱と相まって雪が無い。牧草地の木々の新芽はすでに色を変え膨らんでいる。昭和新山の東斜面(手前側)には旧フカバ集落があった。中央下、トドマツの濃い緑の左側には噴火で持ち上げられた旧胆振線の橋脚が遺構として保存されている。