洞爺湖、中島の豊かであった植物は、ヒトが観光のために放したエゾシカの食害にあって多くの種類が姿を消してしまいました。1977年、487種類確認された植物は、1996年には158種類に減少し(故尾崎保氏による)、現在ではさらに少なくなっています。また、幼樹が育っていないため古木が倒れると次世代が補えない結果になっています。草原の切り株の上にかろうじて残っていたノリウツギ(サビタ)はなくなって、いまは次の代のツルアジサイが孤塁を守っています。このツルアジサイもまた、切り株が朽ちてしまうとお腹のすいたシカにとっては好都合で、何事もなかったように平坦な草はらになってゆくのでしょう。周囲にはシカが嫌いなフッキソウとハンゴンソウなどが繁茂しています。
この切り株は針葉樹だったのでしょう。大木でした。この近くにあった、2004年9月の台風で倒れた樹齢350年といわれるエゾアカマツに劣らぬ威容を誇っていたのでしょう。探してみると「大平原」と名が付いているこの草地にはいくつもの切り株が点在しています。ここが深い森だったころを想像してみましょう。家族が写真を撮っています。子どもたちが成長して、ここにどんな自然を見るのでしょうか。
1957年に初めてのオスジカが放されました。翌年、1歳のメスジカが、1965年には妊娠中のメスジカが放たれました。人間の思惑が見えてくるようです。1983年には299頭に増えました。1km²あたり57頭以上の高密度。1984年には増えすぎて自己崩壊が起こったのか22%が死亡、その上32%が間引かれました。1km²あたり30頭を越すと植生全体の回復が困難になる(密度に関する資料は梶、1993による)とのことですが、シカは植物を均等には食べませんから、シカの好みに合ったもの、変化に順応できなかったものから消えてゆきます。いったんシカが放たれると、島のような閉鎖された空間では植生の破壊がどんどん進んでゆきます。調べて行くうちに、ここのシカの導入とその成り行きに関して、ずいぶん人間臭い話が付きまとっているうわさも耳にしました。人の思惑に翻弄されて増えたり減ったり、現在は250頭位と聞きました。シカが増えて森が荒れた影響はは昆虫や鳥の世界にも、さらに土壌成分にも伝播します。中島の誕生後、数万年かかって出来上がった一つの安定していた生物の世界がたった数十年で脱線してしまうなんて、幾重にも罪な人ですね。連れ込んだヒトは。 言っておきますが、シカには罪はありません。やさしい顔しています。
オーストラリアは大陸であり島であります。230年ほど前、この「島」に開拓者達がやってきて、ヒツジを放牧して成功しました。ここには食肉目(ネコ目=ネコ、イヌ、クマ、イタチなどを含む)が確立する前にゴンドワナ大陸と縁を切って(5000万年前)大洋へと漂流しはじめたから特筆すべき外敵はいません。そこでヒトはヒツジばかりではなくウサギも放してしまいました。ウサギはヒツジよりもっと増えて、牧草を食い荒らしました。困った経営者は「ヨーロッパにノウサギが少ないのはキツネがいるからだ」と膝を打ってキツネを放したといいます。狩猟用に放したという説もありますが。キツネは有り余るほどの餌を得、草原を席巻し、余勢を駆って小型の有袋類にも手を出しました。今ではカンガルーを含むいくつもの種類が絶滅し、さらに多くの種類が瀕死の状態となっています。増えすぎたウサギに対しては致死率の高いウイルスを使ったが、自然耐性を持ったウサギが生き残って再び繁栄していると言います。 中島にウサギ(北海道のノウサギはエゾユキウサギ)が放たれなくってよかったですね。もしそうだと、違ったややこしさが展開していたかもしれません。一度、環境の中に広がった動物を根絶することはまったくの不可能ですから。
こんな例は世界中に掃いて捨てるほどあります。だけど我々は間違いを繰り返します。洞爺カルデラ湖の真ん中に浮かぶ我が中島は、オーストラリアに比べれば随分小さいけれど、我々にとっては重く大きな問題です。 春の中島、散策する足もとに咲き乱れていたという幾種類ものスミレ達からから言わせれば、本当の意味で死活問題だったのでしょう。尾崎目録には8種が載っています。(中島の植物目録、p.20、書き込みは仁左衛門)。故尾崎保氏は「滅びゆく森林」-洞爺湖中島からの報告―(1997年刊)の中で「林床ではエゾエンゴサクの青紫色、スミレ科の仲間、ユリ科の仲間が多彩に彩った草花の季節を楽しむ山路でした」と書いています。それから十数年も経っているのに私たちはさほど気にも止めていませんでした。なんとか行動を起こさねばならないのですが。考えているだけではあまり意味が無いのです。
新聞報道(2012年2月11日)によると、洞爺湖町、壮瞥町および環境省から1億3000万円の研究補助を受ける酪農学園大などが「洞爺湖中島エゾシカ対策協議会」を立ち上げ、エゾシカ削減対策に乗り出すと言う。これまで幾度も駆除についての機会があったが、具体的な対策までには至らず、植生が壊滅的になってやっと「こと」が始まるらしい。それにしても、放って置かれたことによる自然の荒廃と時間と費用の大きさには心が痛む。奥尻島では明治11年、12年に6頭のエゾシカが放たれ、約20年後の明治33年には数千頭に増加した。島では日々食べる農作物が荒らされ、困窮した島民は政府農務省に年間1000頭の特別捕獲許可をもらい、3年で完全に駆除されたという。そのような同じ北海道内での事例があっての今回のエゾシカ対策、これから先どのように進展するのであろう。推定頭数の7割、210頭を銃によって駆除する計画とのこと。残ったシカの管理はどうなるのだろう。中島からエゾシカは完全に排除すべきであり、問題を先送りにしてはならない。植生の回復に関しても具体的な配慮がなされるべきである。