203 1878年8月某日

砂嘴から白老を望む白老港は20年程前に使用が始まった。町から3km離れた新しい港だ。この港の少し東側の道を海の方へ入り込むと、そこから東へ、どこまでも続くような砂浜にたどり着く。この浜は秋、鮭釣りで有名だ。成熟した鮭が昔覚えた母なる川の匂いを辿ってやって来る。灰色の海の波間にその姿が透けて見えるようになる頃、猛る雄サケ同様、野武士のごとく蝟集する常連釣師達の血もまた騒ぎ立つ。数百本の竿の幟が立ちあげられると男たちの眼も血走る。まるで鮭の眼だ。男だけではない、女の釣師も混じっている。流木を積み上げ、砂地を掘って小屋掛けする剛の者も現れる。そうなるともう素人衆の立ち入る隙はほとんどなくなる。さすが北海道、鮭となると別格なのだ。人にも鮭にも同じ海の水が流れている。更に1.6km東へ、つまり白老市街地側へ進んでみる(地図参照)。この時期(三月)にはさすがに誰も見えず、飢えたキツネの足跡が続いているだけだった。引き潮のせいもあって、広くなった砂浜には人影もなく、流木以外のごみとしての漂流物も見当たらず、無機素材のみの、ごく当たり前の砂浜の風景と出会うことができた。

砂嘴の地形図と航空写真この砂浜はウヨロ川、ブウベツ川、白老川の三川の河口を閉塞するように西と東から成長した砂嘴である。陸水の流れ、海水との比重の差、沖からの波浪、潮流、風など様々な流体力学の重合的集大成がこの地形だ。1/25.000地形図を見て、自然とは斯く有りなんと納得した。1976年撮影の航空写真と突き合わせて見た。地形には大きな変化は見つからない。もう少し地形の変化が有りそうだと思った割にはそうでもない。砂浜の流失がニュースになっている昨今、姿を変えずに現状を維持し続けている砂浜が身近にあるのだ。ここからはドームを載せた樽前山の見事な山容が手に取るように見える。白老川の上流域は北海道でも有数の多雨地帯だ。その奔流はたち並ぶ火山による噴出堆積物を浸食し運搬し、海に砂利や砂を供給するのであろう。かくしてこの海では潤沢となった漂砂は水に乗り移動し、卓越してこの地形となる。白老の市街はさらに先だ。

イザベラ・バード1878年、今から135年前の8月のある日、幌別を発ったイザベラ・バードはこの浜に沿って白老に向かっている。現在の国道36号線の前身となった街道は、人、馬車の往来が多かったようで、14年後の1892年には北海道炭鉱鉄道が開業(1906年国有化され、室蘭本線となる)している。「どんよりと曇った日で、険悪で暗い水平線が見えた。雑草の茂る平地の上を灰色の道路が走り、それに沿って灰色の電柱が並んでいた。道路は灰色の糸のようにいやになるほど遠くまで伸びていた。微風が海から吹いて来て、足草の間をさらさらと音を立てて通り、背の高い羽毛のような薄を波打たせた。太平洋の荒波の轟く波音は、その壮大な深い低音で空気を震わせていた。この孤独な大自然は、隅々まで詩と音楽に浸っている。私の心は安らぎを覚えた」。その4年前樽前山が1874年に噴火しており、まだ噴火の余韻と残滓がそこここに残っていて、灰色を纏ったイメージの世界があったのだろう。その日の夕方、疲れ果てて白老の宿に着いたイザベラは、「新しい鮭の厚い切り身を炭火で焼いたのを、魚油皿に灯心を立てた灯火の下で美味しく食べた。その日一番楽しかったことだ」と日記に記す。(高梨健吉訳) この鮭は時期からいってまさしくトキシラズ。脂が乗っていて身が厚く、切り身にすると背鰭から腹まで25cmを超える長さとなる。どこまでも軽やかで舌にもたれず、心を舞い上がらせるような豊潤で純度の高い脂身と、Salmonidae属が誇る濃厚な味、滋味深い風味は、最高級の霜降り牛肉をも凌駕する。150年程時計を巻き戻して、私も同行し一緒にありつきたかった。この鮭は間違いなく美味しかったはずだ。残念至極。

イザベラ・バードについてはイザベラ・バード 「日本奥地紀行」高梨健吉訳(2000年)平凡社によった。また、1878年9月6日からの礼文華山道紀行については安藤忍氏のブログもどうぞ。

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