垂れ込めた空を呼び交わしながら飛ぶ白鳥の群れ。白く澪を引く川の流れを見ているようだ。やってきた季節に合わせ、身の内から沸きおこる本能行動。悠久の昔から、血の中に蓄えこまれてきた約束に違わず、今年も北へ向かう。
私たちは地の上に佇み、ただ見送るだけなのだが、旅立ちを見ていると心の底に悲しみがわいてくるのはなぜだろう。私はこうやって、幾度も往く鳥たちを見続けてきた。私もまた、流れ去る月日の中に棲んでいる。
大沼東端付近から春の陽を受ける渡島駒ヶ岳南東面。例年より雪の少ない3月3日、流れ山の林の色が柔らかくなって春の兆しを感じる。火山土地条件図を開いてみた。特異な風貌のこの山は、左右両山麓の傾斜をつなげる富士山型の山様だったという。5千年の休止期間の後、1640年に突如爆発した。徳川時代の初期の頃だ。中央に丸く見えるのが隅田盛(584m)、左は剣ヶ峰(1131m)で、その間の大きな斜面が一回目の山体崩壊した斜面で、水系を分断して大沼などを形成した。右のピークは砂原岳(1112m)で、その手前の斜面が二回目の崩壊の跡で、この時の岩屑なだれは噴火湾に大きな津波を引き起こして、室蘭、有珠周辺で7百人以上の死者を出したという。その津波堆積物は遺跡発掘の実年代を判定する基準になっている。顔立ちは幾度もの山体崩壊を繰り返してできた磐梯山の東側にも、1980年に噴火したセントへレンズ山にも似ているし、有珠山もまた1663年の噴火以前の風景は似たものだったであろう。
噴火湾になだれ込んだ跡は出来澗崎(できまざき)として残っており、沖合はるかまで続いてその岩礁は水産資源をうみだしている。対岸の有珠の海も7千年前の今の海岸線に至る初期の時代にはこうであったろう。この海岸を最近になって幾度か訪れた。浸食されつつある岬の漁師は「いい海だ」という。有名な砂原(さわら)コンブや近年名が売れた「ガゴメコンブ」の自慢をし、上質な海の幸をたっぷりと分けてくれた。
縄文時代の遺物に子供の足形の着いた土版がある。前から実物を見たいと思っていた。南茅部、垣ノ島川の左岸の6500年前の遺跡から見つかったものだ。今は函館市となった南茅部は海と山に接して細長く続く、自然に恵まれた町だ。昔から豊饒の地であり、縄文文化が特に栄えた地であったという。大船・垣ノ島・著保内野(ちょぼないの)などの遺跡に囲まれて建つ縄文文化交流センターは、国宝「中空土偶」をはじめ、充実した展示品を持っている。
足形付土版は二つの遺跡のものが、同時に見つかったナイフなどと一緒に、合わせて展示されていた。すべて踵の側に紐を通す穴がある。家の柱に吊るしていたのだろうか。左右の足が密接しているのはなぜだろう。片方の足のみのもある。子供の成長を願って作ったのかもしれないが、私には不幸にして死んでしまった子供の形見のような気がする。亡くなった子供の揃えられた小さな足裏。上から縄文の文様がなぞってある。「焼きが浅く、管理のために洗っていても、はらはらと解れそうなくらいです」と説明を受けた。
子の死を悼みながら作ったかもしれない粘土板から、親の落胆が伝わってくる。親が亡くなった時に一緒に埋葬されたのだろうとも聞いた。並んだ子供の足形は、縄文時代から現在へ数千年の時空を超えて、親と子、家族、そしてヒトの来し方について、直截な問いかけをしてくる。
伊達市で歴史講演会があっての帰り、会場となった消防署の横道を車で通り過ぎようとしたその時「パーン」と屋根の上に何かが当たった音がした。突然のことだったので、本当に驚いた。まさか隕石ではあるまい、クルミ大の石ころが直接当たった音だ。降りて確認したら、まさしくクルミ大の「クルミ」。瞬間、カラスの仕業に巻き込まれたと気が付き、見上げると消防の屋根から覗き込むハシボソガラスと目が合った。
クルミで遊び、結果旨いナッツにありつけるなら、尖った嘴は最良のアイテム。上手くいくとは限らない。丁か半かの賽の目に、賭けて通りかかったのが私の車。驚いたけれど、カラスの行動を探っている私にはよい証拠品、と頂くことにした。