湖に沿って歩いていてトドマツの樹冠の下に小さな家を見つけた。薪で暖を取り煮炊きをする暮らしがある。後は葉を落としたカラマツ林。シカがいてキタキツネがいてそれとユキウサギ。あと三月もするとカラマツに新芽が萌える。鳥たちが戻ってくる。今は本を読む季節だろう。厳しいが質素と静寂が贅沢。煙突の白い煙が黒い林の中に消えてゆく。
「植物」カテゴリーアーカイブ
465 ホザキヤドリギ
ホザキヤドリギ(ヤドリギ科ホザキヤドリギ属) Loranthus Tanakae Fr. et Sav.
冬季、落葉広葉樹林の葉が落ちると、それまで隠れていたいろいろなものが見えるようになる。カラスの巣と見間違うほどの葉を茂らせたヤドリギが目につくのもそうだ。そして今回は、洞爺湖畔の高木にホザキヤドリギの黄金色の房状の実を見つけた。同じ樹にはアカミノヤドリギの実と葉も見える。なんということだ。これまではまったく気が付かなかった。いつもその下を通っていたのに。本州中部から東北地方までの分布という。この付近のデータが見つからない。物知りの自然観察のプロも初めてだという。冬には冬の発見と悦びがある。
464 冬の花
463 穏やかな冬
462 大丈夫
先日、洞爺湖畔の使われなくなったキャンプ場で、ポリエチレンロープが巻き付いたままの樹を見つけた。丈夫なロープはいずれこの樹に食い込んでしまう。そういう痛めつけられた樹を幾度も見てきた。今日はナイフを持って出かけた。だが樹本体より先に這い登ってきていたイワガラミが痛手を受けていた。だがイワガラミも負けてはいなかった。ロープを植物体の組織に巻き込んで木部の中にしっかりと取り込んでいる。そのうえロープを二本切り離した途端、イワガラミ全体が少しずり落ちてきた。ロープを身の内にし、ロープを体の支えにしていたのだ。
利用できるものは敵味方の区別なくすべてを内的なものとし同化させ、自ら全体も適応して変化してゆく。生命はこうやって継続してきた。これこそいのちそのものの本質なのだろう。
461 白銀オロフレ
459 天網恢恢
オオウバユリの蒴果が弾け、殻だけが丈夫な茎の天辺に残っている。茎も殻も軽くて実に丈夫だ。三裂した殻の中に風に乗りやすい小判型の種子がぎっしりと詰まっていたはずだ。以前数えたら一個の蒴果に555個の種子が格納されていた(ブログ2011年10月)。裂開した蒴果はそれぞれ細い糸状の繊維で綴られ、種子はその隙間から時間をかけて徐々に漏れ落ちた。決して一時に散開しなかったところが重要で、気温や湿度、時間、吹く風にすべてを委ねながらゆっくり大地に散布されて行っただろう。
「天網恢恢疎にして漏らさず」(天網恢恢,疎而不失)と老子にある。天の網は荒くも見えるが悪の種は決して逃れられないという。逃がさず漏らさずと解釈もできるが、要は一時に散財させないということだ。天は無駄な浪費を許さず自然の仕組みに配慮を怠らなかった。いのちの行く末までおしなべて見通す「天の漏らさぬ配材」なのである。
457 茶が飲める
455 年賀状
454 北の縄文 松飾り
しめ縄を作る機会があって、縄部分を教わって何とか作りあげた。関西からやって来て洞爺湖有珠火山マイスターとなったS氏が講師で、彼の田圃で育てあげ、湿りを入れて打ち柔らかくした稲わらを使わせてもらった。綯い方はやはり火山マイスターのBさんに教わった。飾るに際してはたと気が付き、例の伊達前浜の塩サケ(ブログ440、447)の頭を使って「箔」を付けることとし、裏庭の小さな王林を咥えさせた。松はオンコ、昆布はアルトリ岬産。これぞ地のものを使った北の縄文、ジオパーク松飾り。
松を飾るのは遠く雲南、照葉樹林文化からの伝えだというが、数千年をえて弥生式文化のこちら、ナラ落葉樹林文化の地の果ての仁左衛門宅が落ち着く先となりました。北の縄文人、オホーツク文化人たちは鮭と深~い縁で繋がっておりました。鮭は北の民が冬を越す「命の依代」でした。