560  落ち武者台風

落ちリンゴ太平洋にある巨大な積乱雲の渦の時からその消長、行方が気になっていたが、目ができ超大型のチョーイワン(CHOI-WAN=彩雲)という台風23号になった。北日本へ進路をとり道東をかすめ温帯低気圧になったがエトロフに在ってもまだ964hPa。昨日の北海道は強い風に翻弄された。一週前の21号くずれで庭のリンゴがずいぶん落ちたが、さらに100個以上落とされた。あと2週後に収穫の予定だった。落果狼藉。

557  バージョンアップ暴風

天気図台風21号くずれの低気圧が見せかけ弱まって、北上しながら急速に発達し、稚内沖で946hPaまで強さを増した。(https://weather.yahoo.co.jp/weather/zoomradar//)北日本全域に強い西風を吹かせ、我家でもあと二週間待ちのリンゴ王林二本が50個も落ちてしまった。東北、北海道の果樹栽培地は日本海側に多いから、この時期、特に津軽や余市などのリンゴ農家は大変だろう。

今日の天気図と気象衛星画像は地学のテキストに載せたいくらいぴったりの出来合いで、素人目にも気象の解説に弾みがつきそうだ。寒冷前線の見事さ、風の向きと強さにについて、そしてこの低気圧の行く末は、など、興味津々だ。

556  オオフクマメは隠元豆

オオフクマメ裏庭に続く隣の畑。今年は白くて美味しいオオフクマメだった。豆は手柴に巻き付いたまま干され、機械がやって来て収穫、次の日、殻は燃やされて畑は土に戻った。このマメはインゲン豆のこと。赤いのはキントキ Kidney beans(腎臓まめ)で刑事コロンボの好物のチリビーンズとなる。この地の特産の白インゲンは和菓子の高級原材料だ。隠元禅師とコロンボと和菓子が繋がった。

554  ポルチーニ!

ポルチーニ気温が下がって来て、そろそろと思っていたが、近場の私の「シロ」三つのうちの一つで上出来のポルチーニ・ヤマドリタケを手に入れた。嬉しいね、こんな「絵にかいたような」極上もの、私も初めて。欧州の図鑑で見る以外は出会えはしない。厚めに切ってソテーし焼き色を付けるとナッツの香り。私はそれにバターと塩が好き。旨み、香り、それと「こく」。パスタにもいいが、冷えたワインに打って付け。

553  どちらが先か

シラカバ箱根近くに住む知り合いがやって来て、「何にもまして素敵だと思ったのはシラカバのある風景だ」と言った。「こちらでは当たり前の風景だ」と自慢して見せた。だがこの風景、これはあんまりというものだ。ひどすぎる。まかり通った電線にしてやられている。この樹は5年もすると箒のような形に復活するだろうがこれでは主客顚倒。軒を貸して母屋を取られてはいないか。

552  里山を編む

樹皮を編む火山マイスターの Y,mimatu 氏の発案・指導で、裏山から得られる素材で籠やコースターを作る講習会があり、手慣れた師匠の技術を教わろうと8名が参加した。この辺りではヤマブドウ、オニグルミが簡単に手に入る。サルナシ(コクワ)、シラカバ、昔からアツシ織りなどの繊維として使われてきたシナノキやオヒョウニレも入手可能だ。

今のところ、採取、剥皮、晒しは師匠の手業にたのむこととし、弟子の手は、割きと編み上げに徹する。自然と生活を直接に結ぶ手の技は、里山と繋がることで生活を築き上げてきた証しでもある。

547  細工は流々

梅干し ブログ536「我が家の塩梅」の続き。15%の天日塩でひと月漬けこみ、晴れ間を見つけ三日ほど干したら飴色に仕上がって、味もまろやかでいい塩梅。梅干し用の竹籠は荒い目に竹の表皮を通してあって食材を痛めない。40年も前、用賀にあった竹籠屋の爺さんから買った優れものだ。

今年の梅は柔かく仕上げようと思い、取り出しに都合よいように一層ずつガーゼで仕切った。同じように3日間、日に当てた梅酢を少し多めに振りかけて、あとは一年か二年、ころ合いを待つ。

545  室戸の夏に似て

ハマユウ2010年4月、前年に世界ジオパークに認定された洞爺湖有珠山ジオパークのポスターを持って、南の国四国を旅した。今ではGGNにも認定されている室戸岬が、ジオパークに熱い眼を注いでいると聞いていたからだ。その時室戸岬で拾ったニンニク一片ほどのハマユウの種子が大株に育ってくれた。根元は30㎝位の太さ。今年はいつもと違って種子が一つ成熟して陽に輝いている。

遠景、昭和新山のドームの上は夏空にも見えるが、吹く風は秋。あとひと月もするとハマユウは鉢ごと室内に移される。

540  渋さの記憶

トチノキ子どもの頃、胃腸薬だと大人たちが言っていた。食糧難だったがトチを食べる話はなかった。聞き書き「北海道の食事」「アイヌの食事」(農文協)にも載っていないから一般的ではなく、救荒食としての言い伝えくらいだったのだろう。サポニン、アロインを含んでいて苦味が強い。東北地方までは複雑なあく抜きの方法と食品が伝えられている。北海道開拓の人たちはまどろっこしい手順を踏む余裕も無かったのだろう。