あやまって窓ガラスにぶつかり脳震盪を起こしたシメを庭木にそっと止まらせ、プロフィールを撮った。しばらくしてシメは飛び去って行ったけれど、どうなったのか。群れに留まれなかったもの、飛び方が不自然なものはタカやカラスの栄養となる。
カバ色の頬に黒い縁取りのグラスとあご髭がキャラクター。極端に大きく頑丈な嘴は使い込まれ、かつ汚れている。したたかに生きてきた証しであり、生への執着の現れだ。生きなければいけない。眼はかたっている。
室蘭半島は先端の地名から絵鞆半島と呼ばれた。エトモとはエンルム(enrumu=岬)によるという。半島の南面は500~300万年前の海底火山の噴出物が堆積した室蘭層と、それを突き抜けた岩脈で構成された100m程の断崖となっている。小さな岬で仕切られた砂浜や入り江が数多くあり、アイヌ地名と逸話が残されていたが岬は削られ砂浜は埋められて古の姿は残り少ない。写真の右の岩はローソク岩でアイヌ名は残っていない。左は岩脈が海に取り残された岩で白く見えるのは雪ではなくカモメの糞。マスイチ(マスイ・チセ=カモメ・家)の語源となった岩であり岩の近くには海蝕洞がある。この浜には降りて行くことができ、人の手の入っていない時代の絵鞆半島に出会える。
手前の断崖の先にも大きな洞窟が口を開けているが、西側の別な浜から岩伝いに行くしか方法がない。この洞窟こそ、白鳥湾(=室蘭港)側のトキカルモイあたりに有ったという「アフンルパロ」からつながり、太平洋側にもあるといわれた伝説の「アフンルパロ」ではないかと私は思っている。
室蘭市の太平洋に面した漁港近くの住宅地で、男がハンマーで何かを打っている。思い当たる節があって、車を停め「懐かしい風景ですね、昔はよく見たね。スルメなんかも」と言ったら、「俺たちはいつもこうだ」という。歩道の縁に腰掛け「タラを打ち」を続け、立ち上がりながら二本差し出し、「うまいぞ」「掃除はしないんだ、あとはカラスが食う」と言って家に入っていった。
日曜日の午後三時、明日は時化模様。これからタラとマヨネーズと唐辛子で焼酎か。ご近所付き合いしたいですね。 近くのどの家の軒下にも、スケソウダラが寒風に揺れている。帰りの車の中の、叩かれて幾倍にも膨れ上がったむき出しのタラからは、凝縮されていた旨みがハンマーの力で弾けとび、肺の腑、胃の腑まで滲みこんでくる。
ホザキヤドリギ(ヤドリギ科ホザキヤドリギ属) Loranthus Tanakae Fr. et Sav.
冬季、落葉広葉樹林の葉が落ちると、それまで隠れていたいろいろなものが見えるようになる。カラスの巣と見間違うほどの葉を茂らせたヤドリギが目につくのもそうだ。そして今回は、洞爺湖畔の高木にホザキヤドリギの黄金色の房状の実を見つけた。同じ樹にはアカミノヤドリギの実と葉も見える。なんということだ。これまではまったく気が付かなかった。いつもその下を通っていたのに。本州中部から東北地方までの分布という。この付近のデータが見つからない。物知りの自然観察のプロも初めてだという。冬には冬の発見と悦びがある。
長流川にハクチョウが集まっていた。数えたら百羽くらい。体色が白く成りきっていない幼鳥もいて嘴の黄斑の形からオオハクチョウとわかる。さほど差し迫った状況にもないのだが、互いに鳴き交わし、騒々しいことこの上もない。これはコンタクトコール。群れを構成するうえでそのメンバーが自らを確認させあう重要なシステムだ。さらに群れを作って渡りをする時にはフライトコールで互いに呼び交わす。ともに長旅をする仲間や若鳥を励ましているのだろう。
渡りの季節、ハクチョウのフライトコールが聞こえると家の窓を開けて空を見あげ群れを探す。低く高く飛ぶ白い列なりには、いつも荘厳さを感じる。猟犬の群れが林を駆け抜けるような気迫のこもった声を聞くと、心のどこかで、私も旅立たねばと思ってしまう。
しめ縄を作る機会があって、縄部分を教わって何とか作りあげた。関西からやって来て洞爺湖有珠火山マイスターとなったS氏が講師で、彼の田圃で育てあげ、湿りを入れて打ち柔らかくした稲わらを使わせてもらった。綯い方はやはり火山マイスターのBさんに教わった。飾るに際してはたと気が付き、例の伊達前浜の塩サケ(ブログ440、447)の頭を使って「箔」を付けることとし、裏庭の小さな王林を咥えさせた。松はオンコ、昆布はアルトリ岬産。これぞ地のものを使った北の縄文、ジオパーク松飾り。
松を飾るのは遠く雲南、照葉樹林文化からの伝えだというが、数千年をえて弥生式文化のこちら、ナラ落葉樹林文化の地の果ての仁左衛門宅が落ち着く先となりました。北の縄文人、オホーツク文化人たちは鮭と深~い縁で繋がっておりました。鮭は北の民が冬を越す「命の依代」でした。