低気圧に南からの湿った暖気が吹き込んで日本列島に春の雨。夕方近く、噴火湾に雲の切れ間ができて、伊達の郊外から見る50km先の渡島駒ヶ岳が雲海の上に浮き上がった。解け残った雪をのせ、たそがれ近く、雲間の火山は墨流しの一幅に仕上がった。たっぷりと降った雨はこの季節、畑や野山にとっての恵みの雨となった。
「火山・大地・気象」カテゴリーアーカイブ
490 斑雪大有珠
489 またね、モラン
488 往くもの
487 キレンジャク
486 二つのドーム
485 アトリが多い
484 風貌はおとなしいが
大沼東端付近から春の陽を受ける渡島駒ヶ岳南東面。例年より雪の少ない3月3日、流れ山の林の色が柔らかくなって春の兆しを感じる。火山土地条件図を開いてみた。特異な風貌のこの山は、左右両山麓の傾斜をつなげる富士山型の山様だったという。5千年の休止期間の後、1640年に突如爆発した。徳川時代の初期の頃だ。中央に丸く見えるのが隅田盛(584m)、左は剣ヶ峰(1131m)で、その間の大きな斜面が一回目の山体崩壊した斜面で、水系を分断して大沼などを形成した。右のピークは砂原岳(1112m)で、その手前の斜面が二回目の崩壊の跡で、この時の岩屑なだれは噴火湾に大きな津波を引き起こして、室蘭、有珠周辺で7百人以上の死者を出したという。その津波堆積物は遺跡発掘の実年代を判定する基準になっている。顔立ちは幾度もの山体崩壊を繰り返してできた磐梯山の東側にも、1980年に噴火したセントへレンズ山にも似ているし、有珠山もまた1663年の噴火以前の風景は似たものだったであろう。
噴火湾になだれ込んだ跡は出来澗崎(できまざき)として残っており、沖合はるかまで続いてその岩礁は水産資源をうみだしている。対岸の有珠の海も7千年前の今の海岸線に至る初期の時代にはこうであったろう。この海岸を最近になって幾度か訪れた。浸食されつつある岬の漁師は「いい海だ」という。有名な砂原(さわら)コンブや近年名が売れた「ガゴメコンブ」の自慢をし、上質な海の幸をたっぷりと分けてくれた。
482 縄文の親たち
縄文時代の遺物に子供の足形の着いた土版がある。前から実物を見たいと思っていた。南茅部、垣ノ島川の左岸の6500年前の遺跡から見つかったものだ。今は函館市となった南茅部は海と山に接して細長く続く、自然に恵まれた町だ。昔から豊饒の地であり、縄文文化が特に栄えた地であったという。大船・垣ノ島・著保内野(ちょぼないの)などの遺跡に囲まれて建つ縄文文化交流センターは、国宝「中空土偶」をはじめ、充実した展示品を持っている。
足形付土版は二つの遺跡のものが、同時に見つかったナイフなどと一緒に、合わせて展示されていた。すべて踵の側に紐を通す穴がある。家の柱に吊るしていたのだろうか。左右の足が密接しているのはなぜだろう。片方の足のみのもある。子供の成長を願って作ったのかもしれないが、私には不幸にして死んでしまった子供の形見のような気がする。亡くなった子供の揃えられた小さな足裏。上から縄文の文様がなぞってある。「焼きが浅く、管理のために洗っていても、はらはらと解れそうなくらいです」と説明を受けた。
子の死を悼みながら作ったかもしれない粘土板から、親の落胆が伝わってくる。親が亡くなった時に一緒に埋葬されたのだろうとも聞いた。並んだ子供の足形は、縄文時代から現在へ数千年の時空を超えて、親と子、家族、そしてヒトの来し方について、直截な問いかけをしてくる。