491  雲間の駒ヶ岳

渡島駒ヶ岳低気圧に南からの湿った暖気が吹き込んで日本列島に春の雨。夕方近く、噴火湾に雲の切れ間ができて、伊達の郊外から見る50km先の渡島駒ヶ岳が雲海の上に浮き上がった。解け残った雪をのせ、たそがれ近く、雲間の火山は墨流しの一幅に仕上がった。たっぷりと降った雨はこの季節、畑や野山にとっての恵みの雨となった。

490  斑雪大有珠

大有珠谷あいに洞爺湖からの霧を纏う、はだれ雪の残る大有珠。明るい4月の光に誘われて窓を開けると大有珠の山巓が見える。雪が消えると同時に握りこぶしほどのアキタブキの蕗の薹が現れる。今年はどこから登ろうかと考えながらルートを探していると、自らの体力の衰えも春霞の向こうに見えてくる。

489  またね、モラン

クロッカス満州の寒気を抱え込んだ高気圧がやって来て、晴れたけれど早朝の気温は-4℃。庭に春を告げていたクロッカスのあたりにうっすらと雪の名残りが。朝日に当たるとはらりと溶けて、黒土に滲み込んでゆく。冬の精霊、モランはムーミンの友達だ。明け方にここを通ってホロホロ山へ帰ったのだろう。今日のホロホロ山は真っ白に光っていた。

488  往くもの

北帰行垂れ込めた空を呼び交わしながら飛ぶ白鳥の群れ。白く澪を引く川の流れを見ているようだ。やってきた季節に合わせ、身の内から沸きおこる本能行動。悠久の昔から、血の中に蓄えこまれてきた約束に違わず、今年も北へ向かう。

私たちは地の上に佇み、ただ見送るだけなのだが、旅立ちを見ていると心の底に悲しみがわいてくるのはなぜだろう。私はこうやって、幾度も往く鳥たちを見続けてきた。私もまた、流れ去る月日の中に棲んでいる。

487  キレンジャク

キレンジャクサクランボウの幹の上にキレンジャクがやってきた。数日前から姿を見せている四、五羽の片割れだ。近づいても平気で、昨日庭に置いたリンゴを食べている。シメよりもっと強面風で、冠毛と尾の先の黄色いワンポイントが可愛い。アトリが数十羽、アカゲラ、ツグミ、ヒヨドリ、ムクドリ、シジュウカラ、シメ、スズメ。それにブトとボソのカラス。裏庭も賑やかだ。

486  二つのドーム

二つのドーム三月に入っての雪は大有珠山 の山頂を輝かせ、真冬に戻ったかの感じがする。しかし、春の淡雪は昭和新山ドームの軟らかな地熱で溶け、有珠山と昭和新山が絶妙なコントラストを見せてくれた。毎年、この風景に引かれ、壮瞥町立香(たつか)の定点に駆けつける。昭和新山の噴火の収束が1945年、今年は生誕70年目に当たる。3月28、29日には有珠山2000年噴火(3月27日)から15年の節目に合わせて、壮瞥町情報館で火山防災学習会が開かれる。

485  アトリが多い

アトリひと月ほど前から壮瞥町でアトリの群れを見るようになった。200羽位の小さな群れがあちこちの畑で餌を探していたが、時には1000羽を超すような大きな群れとなり農道を通る人や車を驚かすようになった。数日前、群れを観察中に、遠くの農地がゆらゆらと陽炎のように見えたのだが、それがすべてアトリだと気が付いた。きっと万を超える大群だったに違いない。初めての経験だった。画像は3月16日、我が家の窓から。

484  風貌はおとなしいが

渡島駒ヶ岳大沼東端付近から春の陽を受ける渡島駒ヶ岳南東面。例年より雪の少ない3月3日、流れ山の林の色が柔らかくなって春の兆しを感じる。火山土地条件図を開いてみた。特異な風貌のこの山は、左右両山麓の傾斜をつなげる富士山型の山様だったという。5千年の休止期間の後、1640年に突如爆発した。徳川時代の初期の頃だ。中央に丸く見えるのが隅田盛(584m)、左は剣ヶ峰(1131m)で、その間の大きな斜面が一回目の山体崩壊した斜面で、水系を分断して大沼などを形成した。右のピークは砂原岳(1112m)で、その手前の斜面が二回目の崩壊の跡で、この時の岩屑なだれは噴火湾に大きな津波を引き起こして、室蘭、有珠周辺で7百人以上の死者を出したという。その津波堆積物は遺跡発掘の実年代を判定する基準になっている。顔立ちは幾度もの山体崩壊を繰り返してできた磐梯山の東側にも、1980年に噴火したセントへレンズ山にも似ているし、有珠山もまた1663年の噴火以前の風景は似たものだったであろう。

噴火湾になだれ込んだ跡は出来澗崎(できまざき)として残っており、沖合はるかまで続いてその岩礁は水産資源をうみだしている。対岸の有珠の海も7千年前の今の海岸線に至る初期の時代にはこうであったろう。この海岸を最近になって幾度か訪れた。浸食されつつある岬の漁師は「いい海だ」という。有名な砂原(さわら)コンブや近年名が売れた「ガゴメコンブ」の自慢をし、上質な海の幸をたっぷりと分けてくれた。

482  縄文の親たち

足形付土版縄文時代の遺物に子供の足形の着いた土版がある。前から実物を見たいと思っていた。南茅部、垣ノ島川の左岸の6500年前の遺跡から見つかったものだ。今は函館市となった南茅部は海と山に接して細長く続く、自然に恵まれた町だ。昔から豊饒の地であり、縄文文化が特に栄えた地であったという。大船・垣ノ島・著保内野(ちょぼないの)などの遺跡に囲まれて建つ縄文文化交流センターは、国宝「中空土偶」をはじめ、充実した展示品を持っている。

足形付土版は二つの遺跡のものが、同時に見つかったナイフなどと一緒に、合わせて展示されていた。すべて踵の側に紐を通す穴がある。家の柱に吊るしていたのだろうか。左右の足が密接しているのはなぜだろう。片方の足のみのもある。子供の成長を願って作ったのかもしれないが、私には不幸にして死んでしまった子供の形見のような気がする。亡くなった子供の揃えられた小さな足裏。上から縄文の文様がなぞってある。「焼きが浅く、管理のために洗っていても、はらはらと解れそうなくらいです」と説明を受けた。

子の死を悼みながら作ったかもしれない粘土板から、親の落胆が伝わってくる。親が亡くなった時に一緒に埋葬されたのだろうとも聞いた。並んだ子供の足形は、縄文時代から現在へ数千年の時空を超えて、親と子、家族、そしてヒトの来し方について、直截な問いかけをしてくる。

480  平均値

新雪大有珠二月は暖かく三月に入って地面の雪は日増しに溶けて、そのまま春を迎えるかなと思った。しかし、自然は二月の埋め合わせを三月に回したようで、第二週は強力な低気圧がなかなか移動せず、景色は冬に戻ってしまった。今朝の有珠山は晴れて手前の昭和新山と好対照だった。気温は0℃前後だから数日もすると畑の軟らかく黒い土が顔を出すだろう。