863 クッタラ溶結凝灰岩

胆振幌別川別市街から鉱山町へ6km、胆振幌別川の橋から溶結凝灰岩の崖を見た。クッタラ火山は北東10㎞にあり、円形のカルデラに水をたたえている。登別港付近の凝灰岩には扁平となった軽石が見られるがこの崖地のはどうなのだろう。地質図では「登別泥熔岩」だが、古い表記だという。川底にはグリーンタフ様の露頭が見られた。地質図から訓縫層、八雲層と同じ時代とおもわれる。

862 津波警報

津波警報イタンキ浜海水浴場の津波避難のサイレン。室蘭市のハザードマップではこの場所も水深3mから4m未満の浸水区域に入る。舟見町、鷲別川河口域も同様だ。近隣の登別市、白老町、苫小牧市も津波に襲われる。大津波では外海に面した海岸の被害は壊滅的だ。北海道太平洋岸では巨大津波がおよそ400年周期で起こるという説もある。この場所は過去に幾度も津波が通りすぎた場所なのだ。

861 石庭

有珠善光寺有珠善光寺の裏庭。有珠山の山体が崩壊して海まで押し出した。岩塊は一万年もの年月で洗いだされてこの庭となった。厳冬期でもこの程度の雪。凍らぬ海の恩恵で一足早く咲く早春の花の便りもここから始まる。イタヤカエデと見られる一抱えもあろう古木のこの湾曲はどうだ。石の間に生を受けて間もない頃だろう、何かがあってこの形。いのちを刻み続けて春を待つ。

 

860 アルトリ岬

アルトリ岬有珠湾の南にあるこの岬は、成層火山であった有珠山が山体崩壊し、岩屑雪崩となって一気に噴火湾に落ち込んだ名残である。山麓に残るいくつもの流山(ながれやま)や、有珠湾の入江も同時に形成された。沖合数㎞まで延びる水面下の岩礁も手前の黒い岩もその一部だ。岬には福田茂夫火山マイスターのアルトリネィチャーハウスがあり、この地の自然環境について学ぶことができる。

859 有珠善光寺

有珠善光寺開基は平安時代にあるという。寺号は慶長18年(1613年)にさかのぼる。徳川家斉の時代1804年に、様似の等澍院と厚岸の国泰寺と共に蝦夷三官寺に指定された。1822年(文政5年)の有珠山噴火では火砕流が寺の背後まで迫り、百余名もの死者が出た。茅葺の屋根を持つその構えや、創建以来の歴史、有珠山噴火とのかかわりの地方史からしても、北海道では当代きっての古刹だ。

858 雪の足跡

雪の足跡壮瞥滝下、沢伝い水伝いに続く足跡。キタキツネと、カルガモだろうか水かきの付いた四角い足跡もあった。連れ立って歩いたとは思わないが、雪の様子からして昨日から今日のことだ。すれ違いがあったかもしれない。少し上流には羽毛の散らばった古い修羅場の跡もあった。陽の光も強くなっているし、湧水際の緑の草の色もある。やがて来る春へと繋がるいのちの脚跡。

857 旧胆振線・上長和駅

旧上長和駅伊達紋別から倶知安までの国鉄胆振線は1986年に廃止された。全線単線で勾配はきつく、太平洋戦争時代の鉄鉱石の輸送、昭和新山噴火時の地盤の隆起による迂回敷設など、時代に翻弄された路線だった。伊達市部分はサイクリング道路として残されている。この駅は公園となり、冬季は歩く人とて少なく、直線部分だった軌道の跡と、改造された駅舎とホームに少しの面影を残している。

856 エゾシカの革

エゾシカの革ブログ846のエゾシカの皮がなめし終わり、半乾きながらこのようになった。脂肪や結合組織の取り残し部分が厚くなって残っている。なめす前にするべき作業だった。この時点でのスクレーパーは役に立たないので、指先で摘み上げて黒曜石の石刃や破片の刃で丁寧に削ぎ取る。切れ味は文句なしだ。はるか遠い昔の、ご先祖さんたちの真剣な眼差しと後ろ姿が浮かんできた。

855 スギとトドマツ

スギとトドマツ壮瞥川が昭和新山に遮られ、新山沼になるあたり。写真中央の褐色がかった針葉樹がスギの林で、その下にはシラカバ。その上の濃い緑がトドマツ。スギ林は道南にかけて多くなり、ここ以北はトドマツ林が多い。その分かれ目がこの辺りだ。春ともなれば本州ではスギ花粉のニュースで賑やかになるが、北海道ではシラカバの花粉アレルギーが話題になる

854 山眠る・有珠山

厳冬の有珠山南東側からの有珠山山頂部。本格的な冬となった。山頂は雪をかぶり樹々は葉を落とした。山は眠っている。草津白根山が噴火し、続いて蔵王山も噴火警戒レベルが1から2へと引き上げられた。2011年の東日本大震災をきっかけに、日本列島の火山は活動期に入ったといわれている。今年、来年、この山は静穏を保ったままだろうか。次の噴火への折り返し点は過ぎたともいわれる。